人文学っておもしろい?

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自由でいたい。でも、居場所が欲しい―トルーマン・カポーティ「ティファニーで朝食を」をめぐる対談/考察

 

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

 

 

小説をめぐる対談その3は「ティファニーで朝食を」。カポーティの代表的な中編ですね。前回のオースター「ムーン・パレス」、初回のサリンジャーフラニーとズーイ」に続きアメリカ現代文学です。思えばこの3作はどれも、会話が軽妙で面白い。アメリカ的というかなんというか、からっとしたウィットがある気がする。それではお楽しみください。

 

 ※前回、前々回の記事はこちら

jinbungaku.hatenadiary.com

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S: 沙妃

M: 万葉

 

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M じつは私「ティファニーで朝食を」って映画は知ってたけど、原作がトルーマン・カポーティだってわりと最近知ったんだ…映画があまりに有名になりすぎて、私みたいに原作を知らない人も多いんじゃないかなあ。

 

S そうかもね。私はでも映画より先に小説だったな。この対談を機に映画も観てみたけれど。映画の方はハッピーエンドのラブ・ストーリーになってたね。

 

M ね。原作通り、ホリーがブラジルに旅立って終わりでもよかったんじゃないかなあと思うけど。私、映画の印象が強すぎて、この小説読んだときホリーがどうしてもオードリー・ヘップバーンになってしまった。オードリーの印象のおかげで、この小説で想像する私のなかのホリーは自由気ままに生きるチャーミングな女の子だった。実際カポーティが描くホリーって過激なまでに奔放だよね。しゃべり方もときどき荒っぽいし、部屋は散らかってるし。

 

 

ティファニーみたいなところ

M ホリーの発言でいくつか印象深いのがあった。たとえば小説の題名にもなるティファニーに言及しているところ。「自分といろんなものごとがひとつになれる場所をみつけたとわかるまで、私はなんにも所有したくないの」、そしてそういう「場所」は「ティファニーみたいなところなの」(p.64)と言う。自分が自分になれるところとしてティファニーを説明しているよね。

 

S ホリーって自由奔放に、誰からも何からも束縛されず生きたい、という思いがある一方で、自分の居場所も探しているよね。というか自分の本当の居場所がわからないから、自由気ままに生きているのかもしれない。玄関に「旅行中」ってかけとくのは、いまは家にいないけど、いつか帰ってきますよ、ってサインだもんね。

 

M そうだね。それにホリーにとってはティファニーは「いやったらしいアカ」から逃れられる場所でもある。そういう「アカ」的存在をいま日本にいる私たちが身に迫るものとして感じることはないけど、精神的に余裕のない時に優雅な雰囲気を浴びると、なんとなく自分の焦りから一歩引いて肩の力を抜くことができたりするよなあと思った。そういう空間を憧れとして持っておくっていうのもなんとなくわかる。本当に手に入っちゃうんじゃなくて、イメージとして、余裕のある世界を持っておくというか。

 

 

ホリー・ゴートライリーとは、どんな女性か

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M 束縛を嫌い数多くの男性の誘いを断り、ハリウッドへの道も自ら断ち、チップと謎の老人慰問で生活費を稼ぐ…ホリーって、現代から考えても相当なアウトサイダーだよね。でも自由を求めながらも居場所を探すその人物像は、共感できる部分があるしなんだか憎めない。そしてなげやりに生きてるようにも思えるけど本当はものすごく弱くて、その弱さを隠すんじゃなくてさらけ出しているような印象がある。

 

S 私はホリーって、すごく魅力的な女性だと思う。バランスが悪くて、ある種の危うさがあるゆえの、魅力。でも男をだめにしていくような、ファム・ファタール的女性とは違う気がするんだよね。それにしてはホリーは、不器用すぎる気がする。

 

ホリーが図書館で本を読むシーンがあるじゃない。それを観察していた「私」が、学校時代の「ガリ勉の女の子」とホリーが似ていることに気付く。二人は「何があろうと断じて変化しようとはしない」「彼女たちが変化しようとしないのは、彼女たちの人格があまりにも早い時期に定められてしまったためだ」(p.92-93)という。二人はコインの裏表みたいだと。

 

ホリーは完成しちゃっているんだよね。自由を求めるっていうところが、縛られないってところが、変わらない。だから一見自分で破滅への道を突き進んでいきそうな、危うさがある。でも周りの人はふつうそんなことできないから、できているホリーがすごく魅力的で、でも危うさもあるから、すごく魅力的なんじゃないかな。万葉ちゃんは、上のシーンどう思った?

 

M 自分というものを把握していく過程を飛び越えてしまった二人、なのかな。小さいころに両親が亡くなって、知らない家に逃げ込んだホリーには、身内が兄のフレッドしかいない。小さいころに、あやしてくれたり叱ってくれたり何か与えてくれる存在がいなかったせいで、自分というものをでっちあげなきゃいけなかったのかなあ、と想像するなあ。

なんだかホリーって、語ることで自分を作っているような感じを受ける。たとえば「私」と二人で互いの子ども時代を語るところでも、到底本当の話とは思えないような物語を語ってる。そもそも饒舌なのも、しゃべることで語ることできっと自分を作ってるんじゃないかなあと思った。

でも「変化しようとしない」って、自分にもあてはまるような気がしてきて、なんだかざわざわする。(笑)

 

S なるほど~。ホリーは「ほんものの嘘つきだ」っていう描写もあるもんね。変化しないっていうのは魅力である一方で、自分のことを把握できる過程をすっとばしちゃって、中身が「からっぽ」なのかもね。「からっぽ」っていうのは、他の人から見た「からっぽ」じゃなくて、ホリー自身が、自分の内側を掘ったときに「からっぽ」というか、家具のない、ただがらんとした部屋があるというか。だから満たそう満たそうとして嘘の話をしたり、しゃべり通したりしちゃうのかな。

 

そういえば私、病院にいるホリーが「私」の持ってきたホセからの手紙を読むシーンが印象的だったな。ちゃんとお化粧をしてすっかり身支度してから手紙の封を切る。なんだかホリーの人となりを表しているようで。

 

M 見られてないけど、姿勢を正すっていいよね。ホリーって本物の嘘つきだっていわれちゃうほどめちゃくちゃな生活を送っているようで、実は居場所を探していたり、好きな人の前できちんとしようとする、普通の女の子なのかもしれない。

 

 

 シュールレアリスム・・・?

M 龍口直太郎訳の「ティファニー」のあとがきに、訳者の教え子である木下高徳氏の卒論が載っていたんだけど、そこでね、シュールレアリスムの系譜からカポーティとこの作品を論じていて、けっこうおもしろかった。カポーティは、「無意識の世界に抑圧されている欲望や本能は、現実の世界において人間を解放しうる有効性をもっている」というシュールレアリスムの基本概念に影響を受けているらしい。だから、あのホリーの奔放さは「原始の自由性」であって、人間が無意識のうちに抑圧している本能が表れたものだといえる。

 

S なるほど~シュールレアリスムか、その繋がりは面白い!!確かにカポーティの「遠い声・遠い部屋」とかって、夢の中みたいな靄がかかった世界だもんね。シュールレアリスムってそもそも現実(レアリスム)を超えるSur(シュール)ってことだもんね。シュールレアリスムって、第一次世界大戦以降合理主義に拮抗する流派として生まれたダダイスムの、その後の流れで生まれたんだけど、たとえばはじめて唱えたアンドレ・ブルトンは「自動記述」っていって夢うつつで書いたことが無意識を表現していることを唱えている。フロイトの無意識の概念に影響を受けているんだよね。

 

ホリーの奔放さが「抑圧された本能、無意識」なのかどうかはわからないけれど、ホリーは確かに「現実を超えた」かんじがするよね。カポーティの初期の作品に比べたら顕著には表れていないけれど、ホリーはちょっと別次元に生きている気がする。

 

 

名付けること

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S この小説、「名前」がひとつのキーポイントになってるよね。猫に名前がなかったり、そもそもホリー自身が偽名だったり、「私」のことをホリーが自分の兄の名前であるフレッドって呼んだり。名前をつけることでアイデンティティを得る。名前を変えれば違う自分になる。「名前」は人と人の関係を固定するもので、それを怖れてホリーは自分にも他人にも偽名を使ったのかな。

 

M そうだね。「私」をフレッドって呼んだってことは、実際のフレッドの代わり的存在として「私」を見ていたのかもしれない。いまでこそ偽名を使ったらすぐばれちゃうだろうけど、昔は簡単にはわからないよね。夫婦同一姓の問題とかも思い浮かぶけど、名前を変えるたびに違う自分を演じられるって、なんだかちょっといいなあと思ったりする。

 

 

 ギャツビー

M ホリーがパーティーばかりやっている描写があるけれど、このシーンでなんとなくスコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」を思い出した。ギャツビーもパーティーを毎晩のごとくやってるよね。

 

S 確かに、ギャツビーも語り役のニックは作家だし、なんだか人物構成も似ているかもしれない。ギャツビーは自分の夢であるデイジーという存在を追い求め、ホリーは自由と自分自身を追い求める。そう考えると、自分の持っていないものを追い求めるっていう点で似ているけど、ギャツビーの方がアメリカンドリーム的な古さがある一方で、カポーティの方が現代的なのかなあと思う。

 

 

・・・アメリカ文学、三作品目はカポーティの「ティファニーで朝食を」でした。

これまで取り上げたのは、サリンジャーフラニーとズーイ」、オースター「ムーン・パレス」、カポーティティファニーで朝食を」。どの作品も名作であり、いまなお多くの人に読まれ続けている(オースターは存命ですが・・・)のは、作品から浮かび上がるテーマが普遍的だから、でしょうか。

翻訳が新しくなって読みやすくなったことも、一役買っているような気がします。

 

読みながら、時代も場所も異なる舞台にいる人物たちの人生を追体験する。読み終わって本から目を上げると、世界が少しだけ違って見えるかもしれない。

 

さて、一転して次回は、堀辰雄の「菜穂子・楡の家」です。

 

菜穂子・楡の家 (新潮文庫)

菜穂子・楡の家 (新潮文庫)

 

 

 

あなたの小説との出会いに、幸多からんことを。

 

★★★今回出てきた本たち★★★

 

遠い声遠い部屋 (新潮文庫)

遠い声遠い部屋 (新潮文庫)

 

 

 

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)