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人文学っておもしろい?

「人文学」っておもしろいよ。そんな提案をしています。

文学を、肴に。サリンジャー『フラニーとズーイ』をめぐる対談/考察

小説をめぐる対談

 

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 

 

J.D.サリンジャーの小説『フラニーとズーイ』を二人で語り合いました。

語り合うといっても堅苦しいものなんかじゃなくて、ラフに、思いつくままに、特に根拠もなしに、読後感をカフェでおしゃべりする感覚で語らったものです。

というより正確に言うと対面ではなく、Line上で思ったことを送りあったものを、後で対談形式にまとめたものなんですけどね。

 

なので話のまとまりといったものは、あまりありません。

 

けど、

 

一人で読むのもいい。けど、二人で読むとなおいいよね。

答えなんて簡単には見つからないよね。

疑問を共有すると、その疑問への自分の知らなかった見方を知ったり、そこからまた新たな疑問が生まれたりして、面白いよね。

 

そんな当たり前のことに、この小さな”対談”から気づかされました。

 

というわけで、『フラニーとズーイ』を大好きな人も、昔読んだけど忘れちゃったって人も、これから読んでみようかなって人にも、読んでもらいたいです。

 

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フラニーとズーイ』を語りたい

 

M 沙妃ちゃんがブログで書いているみたいに、『フラニーとズーイ』は、簡単に言うと、迷える妹を兄が救うというとてもシンプルなストーリー。でもこの小説、妙に共感できる部分が多いよね。フラニーが「エゴ」で悩むとことか。私もよくフラニー化してる。(笑)

この小説のなにが面白いかって、やっぱり「細部」が濃いっていうのが大きい。

 

 S そう、『フラニーとズーイ』はとってもシンプルな話で、あらすじだけを取り上げると、大学生のフラニーが、スノッブでエゴが強くて、周りの評価を気にしてばかりの周囲の人たちにうんざりして、自分の中に閉じこもっちゃう。

 

そんなフラニーをお兄ちゃんのズーイがまあまあと言ってなだめるというか、フラニーの殻を破る話。周りのエゴにうんざりして、でも自分自身もそんなエゴから自由ではなくて悶々と悩む…というのは別に1950年代のアメリカの若者だけじゃなくて、現代の日本に生きる人たち、まあつまり私たちにも通ずることで。

 

そんな普遍的なものを扱っているからこそ、逆に細部が活きてくると思うんだよね。ズーイがお風呂の中でたばこを吸いながら手紙を読むシーンとか、お母さんとズーイのウィットに富んだ軽妙な会話とか、ズーイの結婚に対するくすっと笑えるエクスキューズとか…って全部ズーイ関連になっちゃったけれど。

この小説が読まないとわからないのは、テーマうんぬんじゃなくて、そういった細部の面白さに支えられているからと思う。

 

これって、『ノルウェイの森』?

 

M まず、ズーイがバディとしてフラニーに電話する場面。これ、村上春樹の『ノルウェイの森』だ!と思ったの。これは小説的にはクライマックスの場面なんだけれどね。フラニーとズーイの上にいるバディーっていうお兄さんが、この小説の語り手でもあり、最後にズーイがこのバディーのふりをして、フラニーに電話をかけるんだ。ややこしい。(笑)

ノルウェイの森』のレイコさんが、主人公の恋人直子が死んだ後、「僕」に会いに行く最後のシーンがあるじゃない。そのレイコさんが実は直子の代わりなんだ、ってどこかで読んだんだけど、似ている!って発見した。つまり、霊(シーモア・バディー※バディーは“霊”ではないけど/直子)の代わりに誰か(ズーイ/レイコさん)が、メッセージを届けに行くっていう構図が似ているなあ、と。

 

S 『ノルウェイの森』との対比、面白いね。私、シーモアの存在をどう受け止めるか、もやもやするんだよね。シーモアっていうのは、フラニーズーイバディーたちの長兄で、自殺した人。万葉ちゃんが言っている霊っていうのは、つまり死者っていう意味だよね。私、シーモアがこの小説の鍵になっているというか、背後を貫いている一本の流れのようなものかなと思っている。

 

さらに村上作品と似ているところをさぐる

 

M あとね、バディーとシーモアみたいな何かを「つなぐ」存在として、私は「羊男」を思い出した。村上春樹の作品で登場するあの「羊男」。

「羊男」も、物語世界のなかで主人公の「僕」をこちらとあちらの世界でつなぐ存在(『羊をめぐる冒険』では「鼠」と「僕」)じゃない。

 

でも実は、なんでいきなり「羊男」が私の中で出てきたかというとね、もっと単純に、バディーが「冬のための設備もなければ、電気も通じていない小さな家に一人で住んでいる」(p.80)っていう説明があったからで。『羊をめぐる冒険』に出てくる羊男も、北海道の山奥にある牧場の一軒家に一人で住んでるじゃない。だから、ぱっとイメージが重なったの。それからバディーと羊男がそれぞれ物語世界で果たす役割を考えてみたら、なんか似てるぞ!と。

 

S なるほどね~。この『フラニーとズーイ』も村上春樹が訳しているし、彼の作品との繋がりを見出すのは面白いね。私はさっき万葉ちゃんが言ってた、霊の代わりとしての存在が、『フラニーとズーイ』と村上作品にすごく共通していると思う。

 

バディーとズーイって、両者とも亡くなった、言わば霊的な存在のシーモアと、フラニーをつなぐ巫女的存在なのかなって。巫女的存在は村上春樹によく出てきていて、さっき出た『ノルウェイの森』のレイコさんもそうだし、『羊をめぐる冒険』だと耳が素敵な「僕」のガールフレンドがそうかな。こちらの世界とあちらの世界を繋ぐ人。

 

  

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「太ったおばさん」の謎

 

M 「(フラニー、君は)太ったおばさんのために靴を磨くんだよ」って、シーモアの台詞をズーイが電話でフラニー語るところ、おお~なるほど!!と、鳥肌が立った。何のためにこんなことやってるんだろう…と考えこんじゃうんじゃなくて、とにかくやる、やり続けることって、結構人生において重要なんじゃないかな、って。

あと、あえて「太ったおばさん」っていうよくわからないモノをぽんと置くことで、自己とかエゴとか、自分とばかり対峙して硬直してしまわないで、「関係」のなかで自分を考えなさいよ、ってことかなあと思った。 

 

そういえば、『村上さんのところ』(村上春樹が読者の質問メールに答える、という軽~く読めるんだけどとってもためになる本)で、村上春樹が似たような話をしていたんだよね。生きる意味についての質問に対して、生きる意味なんて考えると行き詰るから、「たとえばヤクルトの投手ローテーション」とかを考えてみましょう、そうすれば自分がいて生きる意味があってヤクルトの投手ローテーションがあって「三角測量」できる、と答えています。

良い考え方じゃない?私、辛くなったときはこの考え方を思い出すようにしているんだ。

 

S 自分を関係性の中に置くっていうの、すごく納得する。なんだろう、自分を純粋に突きつめて行っちゃうと、最後にあるのは「死」なんじゃないかなって思ってて。自分は関係性の中にしかないのに、自分の中に入って潜っちゃっていったら、消えていく感覚なんじゃないかなあ、と。

 

M うんうん、なるほど。

 

S でも人は誰でも多かれ少なかれそういう時期とか、自分の中に潜っていっちゃう経験があって、それ故に「関係性の中の自分」にも気付けたりするから、私はそれ自体は悪いことじゃないんじゃないかな、と思ってる。

大事なのは、そこからどうやって関係性の中に戻ってくるか、であって。

 

M 自分を究極的に突き詰めていくと「死」に到る、ってほんと確かにそうだ。私個人的に、どうやったら、本当に心を患ってしまった人のことって救えるのかなあ、ってことを考えてて。たしかに本当に参ってしまうときって、自分の中に潜っている感覚がすごくある。

 

S 万葉ちゃんそういうこと考えていたのか!どうなんだろう、そうやって潜っていった人たちを救うのかってところに、一般的な解はないんじゃないかなあ。でもその分、小説でもそうだけれど、いろんな個別的な物語があると思ってる。

 

フラニーとズーイ』も、村上春樹の特に初期作品も、他の人との関係性から抜け出して自分の中に潜っていった主人公が、そこからどうやって戻ってくるか、っていうのを描いているから、古典的な作品に連なるんじゃないかな。

 

フラニーとズーイ』のシーモアや、『ノルウェイの森』の直子、村上春樹の初期三部作の鼠(よく考えたらこの三人、全員自殺している…?)は戻って来られなかった方で、一方それら作品のフラニーや「僕」は、「彼らになりえた」存在だと思っている。

 

M う~ん、人同士の関係性の中に戻ってくることを描いた小説、面白いなあ。他にもそういうこと書いている作品探したい。

私へこたれるとき、誰かが言った言葉に救われることが多くて、ズーイの全身全霊の言葉にすごく心打たれた。「太ったおばさんのために靴を磨くんだよ」、その言葉でフラニーが戻ってこられる。やっぱり、言葉の持つ力ってすごいんだなあ、と。

 

S 言葉の力、絶対あるよね。勿論悪い方向にも行っちゃうけれど、私も好きな言葉とか、よく書き写したり集めたりする。人文学やっている人が言葉を信じなくてどうする、なんて思ったり。(笑)

 

M そうだよね。あとさ、「太ったおばさん」的なよくわからないモノ、第三者をポンと置くのって、村上春樹が言っている「うなぎなるもの※」に似ていると思った。村上春樹ばかり出てくるけど。(笑)

    

  ※『柴田元幸と9人の作家たち』のなかで、村上春樹は小説を書く際に、書き手と読み手、そこに「うなぎなるもの」を持ち出して「三者協議」をする、ということを言っています。

 

S 「太ったおばさん」とうなぎ、面白いね!私、「太ったおばさん」がいまいちまだぴんとこないんだ。

なんだろう、「あなたは私だし、私はあなたである(ありうる)」ってことかな、なんて思っていた。私はどっちかっていうと、深く掘った先の地下水脈とか、ユング集合的無意識みたいなものが浮かぶ。

 

M おお、なるほど。「太ったおばさん」っていうのはキリストなんだよって言ってるよね、ズーイ。じゃあ、「キリストだけを思って、キリストのために祈らなきゃならないんだよ」っていうズーイの言葉もそこにつながるかな?

 

S 確かに!そう、太ったおばさんはキリストでもあるって言ってるよね。太ったおばさん=キリスト=自分。ううーん、これ私の中で「太ったおばさん問題」と化してる・・・ここをぐるぐるまわり中。

 

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ラブストーリー??

 

M あと気になったのが、ズーイの章の冒頭部でプロット説明するところがあるんだけど、そこで筆者が「これは集合的な、ないしは複合的な、そして純粋にして入り組んだラブ・ストーリーである」(p.75)って言ってるところ。これってシーモアとフラニーのラブストーリーってことかな?

 

S ラブストーリー!面白いね。そうやっていうとまた見方が変わる気がする。「太ったおばさんのために靴を磨くんだよ」っていうのは、シーモアからフラニーの愛のメッセージなのかな。でも確かに、シーモアのその言葉でフラニーは最後救われたもんね。

 

そういえば以前私、『フラニーとズーイ』をアニメ映画『たまこラブストーリー』と絡めて書いたんだけれど、こっちの映画の方は一瞬でわかるように、ド直球に「ラブストーリー」っていうタイトル。

この映画も表向きは幼なじみとの恋愛がメインテーマなのだけど、裏では、亡くなったお母さんと主人公のたまこがメインとなってて。映画の終盤でたまこは、亡くなったお母さんが、お父さんに贈った歌をテープで聞く。

このテープはお父さん宛てなのだけれど、ここで聞いたのはたまこで、そしてこのテープによってたまこは背中を押されて、一歩踏み出すんだよね。

 

これも、亡くなったお母さんからたまこへの、愛のメッセージであり、二人のラブストーリーなんじゃないかな(書いてて恥ずかしくなってきた)。

 

メッセージの伝え方

 

M ズーイが伝える手段に電話をとったところも、すごくぐっときたんだ。メッセージって、点と点を結ぶだけじゃなくて、いろんなものを経由してはじめて伝わるものもあるなあと。

 

S 電話を通じてのメッセージ、面白いね。距離があるからこそ、伝わるものってある気がする。さっき言った『たまこラブストーリー』の、お母さんのメッセージも、カセットテープを経由している。そもそも物語っていうのも、現代の形だと紙の本や電子書籍として出版されているから、様々なものを経て伝わっているんだよね。

とするとインターネット経由のコミュニケーションっていうのも、可能性あるのかなと思った。

 

 

…なんて風に、答えの見つからないまま、あっちへこっちへ話が飛びました。楽しかった。

やっぱり小説って、一人で読むのもいいけど、人と話すといっそう深みが増すと実感しました。次回は対面してやります。

 

現時点での予定はポール・オースターの『ムーン・パレス』です、お楽しみに。

 

答えの見つかってない宙ぶらりんな数々の問いは、これからまた別のものとつながったりして、新たな問いを生むんだろうなあ。

なんて期待しつつ、今日もまた新しい本に手を伸ばす。

 

ここまで読んでくださったあなたも、どうかこれをきっかけに、新たな本に巡り合いますように。

 

★★★

今回紹介した作品一覧:

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 

 

 

ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)

ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)

 

 

村上さんのところ コンプリート版

村上さんのところ コンプリート版

 

 

 

 

ムーン・パレス (新潮文庫)

ムーン・パレス (新潮文庫)