自由でいたい。でも、居場所が欲しい―トルーマン・カポーティ「ティファニーで朝食を」をめぐる対談/考察
- 作者: トルーマンカポーティ,Truman Capote,村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2008/11/27
- メディア: 文庫
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小説をめぐる対談その3は「ティファニーで朝食を」。カポーティの代表的な中編ですね。前回のオースター「ムーン・パレス」、初回のサリンジャー「フラニーとズーイ」に続きアメリカ現代文学です。思えばこの3作はどれも、会話が軽妙で面白い。アメリカ的というかなんというか、からっとしたウィットがある気がする。それではお楽しみください。
※前回、前々回の記事はこちら
S: 沙妃
M: 万葉
M じつは私「ティファニーで朝食を」って映画は知ってたけど、原作がトルーマン・カポーティだってわりと最近知ったんだ…映画があまりに有名になりすぎて、私みたいに原作を知らない人も多いんじゃないかなあ。
S そうかもね。私はでも映画より先に小説だったな。この対談を機に映画も観てみたけれど。映画の方はハッピーエンドのラブ・ストーリーになってたね。
M ね。原作通り、ホリーがブラジルに旅立って終わりでもよかったんじゃないかなあと思うけど。私、映画の印象が強すぎて、この小説読んだときホリーがどうしてもオードリー・ヘップバーンになってしまった。オードリーの印象のおかげで、この小説で想像する私のなかのホリーは自由気ままに生きるチャーミングな女の子だった。実際カポーティが描くホリーって過激なまでに奔放だよね。しゃべり方もときどき荒っぽいし、部屋は散らかってるし。
ティファニーみたいなところ
M ホリーの発言でいくつか印象深いのがあった。たとえば小説の題名にもなるティファニーに言及しているところ。「自分といろんなものごとがひとつになれる場所をみつけたとわかるまで、私はなんにも所有したくないの」、そしてそういう「場所」は「ティファニーみたいなところなの」(p.64)と言う。自分が自分になれるところとしてティファニーを説明しているよね。
S ホリーって自由奔放に、誰からも何からも束縛されず生きたい、という思いがある一方で、自分の居場所も探しているよね。というか自分の本当の居場所がわからないから、自由気ままに生きているのかもしれない。玄関に「旅行中」ってかけとくのは、いまは家にいないけど、いつか帰ってきますよ、ってサインだもんね。
M そうだね。それにホリーにとってはティファニーは「いやったらしいアカ」から逃れられる場所でもある。そういう「アカ」的存在をいま日本にいる私たちが身に迫るものとして感じることはないけど、精神的に余裕のない時に優雅な雰囲気を浴びると、なんとなく自分の焦りから一歩引いて肩の力を抜くことができたりするよなあと思った。そういう空間を憧れとして持っておくっていうのもなんとなくわかる。本当に手に入っちゃうんじゃなくて、イメージとして、余裕のある世界を持っておくというか。
ホリー・ゴートライリーとは、どんな女性か
M 束縛を嫌い数多くの男性の誘いを断り、ハリウッドへの道も自ら断ち、チップと謎の老人慰問で生活費を稼ぐ…ホリーって、現代から考えても相当なアウトサイダーだよね。でも自由を求めながらも居場所を探すその人物像は、共感できる部分があるしなんだか憎めない。そしてなげやりに生きてるようにも思えるけど本当はものすごく弱くて、その弱さを隠すんじゃなくてさらけ出しているような印象がある。
S 私はホリーって、すごく魅力的な女性だと思う。バランスが悪くて、ある種の危うさがあるゆえの、魅力。でも男をだめにしていくような、ファム・ファタール的女性とは違う気がするんだよね。それにしてはホリーは、不器用すぎる気がする。
ホリーが図書館で本を読むシーンがあるじゃない。それを観察していた「私」が、学校時代の「ガリ勉の女の子」とホリーが似ていることに気付く。二人は「何があろうと断じて変化しようとはしない」「彼女たちが変化しようとしないのは、彼女たちの人格があまりにも早い時期に定められてしまったためだ」(p.92-93)という。二人はコインの裏表みたいだと。
ホリーは完成しちゃっているんだよね。自由を求めるっていうところが、縛られないってところが、変わらない。だから一見自分で破滅への道を突き進んでいきそうな、危うさがある。でも周りの人はふつうそんなことできないから、できているホリーがすごく魅力的で、でも危うさもあるから、すごく魅力的なんじゃないかな。万葉ちゃんは、上のシーンどう思った?
M 自分というものを把握していく過程を飛び越えてしまった二人、なのかな。小さいころに両親が亡くなって、知らない家に逃げ込んだホリーには、身内が兄のフレッドしかいない。小さいころに、あやしてくれたり叱ってくれたり何か与えてくれる存在がいなかったせいで、自分というものをでっちあげなきゃいけなかったのかなあ、と想像するなあ。
なんだかホリーって、語ることで自分を作っているような感じを受ける。たとえば「私」と二人で互いの子ども時代を語るところでも、到底本当の話とは思えないような物語を語ってる。そもそも饒舌なのも、しゃべることで語ることできっと自分を作ってるんじゃないかなあと思った。
でも「変化しようとしない」って、自分にもあてはまるような気がしてきて、なんだかざわざわする。(笑)
S なるほど~。ホリーは「ほんものの嘘つきだ」っていう描写もあるもんね。変化しないっていうのは魅力である一方で、自分のことを把握できる過程をすっとばしちゃって、中身が「からっぽ」なのかもね。「からっぽ」っていうのは、他の人から見た「からっぽ」じゃなくて、ホリー自身が、自分の内側を掘ったときに「からっぽ」というか、家具のない、ただがらんとした部屋があるというか。だから満たそう満たそうとして嘘の話をしたり、しゃべり通したりしちゃうのかな。
そういえば私、病院にいるホリーが「私」の持ってきたホセからの手紙を読むシーンが印象的だったな。ちゃんとお化粧をしてすっかり身支度してから手紙の封を切る。なんだかホリーの人となりを表しているようで。
M 見られてないけど、姿勢を正すっていいよね。ホリーって本物の嘘つきだっていわれちゃうほどめちゃくちゃな生活を送っているようで、実は居場所を探していたり、好きな人の前できちんとしようとする、普通の女の子なのかもしれない。
シュールレアリスム・・・?
M 龍口直太郎訳の「ティファニー」のあとがきに、訳者の教え子である木下高徳氏の卒論が載っていたんだけど、そこでね、シュールレアリスムの系譜からカポーティとこの作品を論じていて、けっこうおもしろかった。カポーティは、「無意識の世界に抑圧されている欲望や本能は、現実の世界において人間を解放しうる有効性をもっている」というシュールレアリスムの基本概念に影響を受けているらしい。だから、あのホリーの奔放さは「原始の自由性」であって、人間が無意識のうちに抑圧している本能が表れたものだといえる。
S なるほど~シュールレアリスムか、その繋がりは面白い!!確かにカポーティの「遠い声・遠い部屋」とかって、夢の中みたいな靄がかかった世界だもんね。シュールレアリスムってそもそも現実(レアリスム)を超えるSur(シュール)ってことだもんね。シュールレアリスムって、第一次世界大戦以降合理主義に拮抗する流派として生まれたダダイスムの、その後の流れで生まれたんだけど、たとえばはじめて唱えたアンドレ・ブルトンは「自動記述」っていって夢うつつで書いたことが無意識を表現していることを唱えている。フロイトの無意識の概念に影響を受けているんだよね。
ホリーの奔放さが「抑圧された本能、無意識」なのかどうかはわからないけれど、ホリーは確かに「現実を超えた」かんじがするよね。カポーティの初期の作品に比べたら顕著には表れていないけれど、ホリーはちょっと別次元に生きている気がする。
名付けること
S この小説、「名前」がひとつのキーポイントになってるよね。猫に名前がなかったり、そもそもホリー自身が偽名だったり、「私」のことをホリーが自分の兄の名前であるフレッドって呼んだり。名前をつけることでアイデンティティを得る。名前を変えれば違う自分になる。「名前」は人と人の関係を固定するもので、それを怖れてホリーは自分にも他人にも偽名を使ったのかな。
M そうだね。「私」をフレッドって呼んだってことは、実際のフレッドの代わり的存在として「私」を見ていたのかもしれない。いまでこそ偽名を使ったらすぐばれちゃうだろうけど、昔は簡単にはわからないよね。夫婦同一姓の問題とかも思い浮かぶけど、名前を変えるたびに違う自分を演じられるって、なんだかちょっといいなあと思ったりする。
ギャツビー
M ホリーがパーティーばかりやっている描写があるけれど、このシーンでなんとなくスコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」を思い出した。ギャツビーもパーティーを毎晩のごとくやってるよね。
S 確かに、ギャツビーも語り役のニックは作家だし、なんだか人物構成も似ているかもしれない。ギャツビーは自分の夢であるデイジーという存在を追い求め、ホリーは自由と自分自身を追い求める。そう考えると、自分の持っていないものを追い求めるっていう点で似ているけど、ギャツビーの方がアメリカンドリーム的な古さがある一方で、カポーティの方が現代的なのかなあと思う。
・・・アメリカ文学、三作品目はカポーティの「ティファニーで朝食を」でした。
これまで取り上げたのは、サリンジャー「フラニーとズーイ」、オースター「ムーン・パレス」、カポーティ「ティファニーで朝食を」。どの作品も名作であり、いまなお多くの人に読まれ続けている(オースターは存命ですが・・・)のは、作品から浮かび上がるテーマが普遍的だから、でしょうか。
翻訳が新しくなって読みやすくなったことも、一役買っているような気がします。
読みながら、時代も場所も異なる舞台にいる人物たちの人生を追体験する。読み終わって本から目を上げると、世界が少しだけ違って見えるかもしれない。
あなたの小説との出会いに、幸多からんことを。
★★★今回出てきた本たち★★★
- 作者: スコットフィッツジェラルド,Francis Scott Fitzgerald,村上春樹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2006/11
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何処から来て、何処へ行くのか―ポール・オースター「ムーン・パレス」をめぐる対談/考察
- 作者: ポール・オースター,Paul Auster,柴田元幸
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1997/09/30
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小説をめぐる対談その2は、ポールオースター「ムーン・パレス」。前回はサリンジャーの「フラニーとズーイ」でしたが、初回にもかかわらずけっこうたくさんの方に読んでいただけて嬉しいかぎりです。亀のような更新スピードで恐縮ですが、よかったらお付き合いください。
※前回の記事はこちら
M:万葉
S:沙妃
偶然とか、必然とか
S 今回選んだのはオースターの長編「ムーン・パレス」。これは万葉ちゃんチョイスだね。私、初めてのオースターは「ガラスの街」で、これがなんだかぴんと来なくて、それ以来ポースターは合わないやって思ってたけれど、「ムーン・パレス」は一転、久々にぐいぐい引きこまれた小説だった。
M この話は、主人公マーコの半生を描いたもの。大学生のマーコは、伯父を亡くして身寄りが1人もいなくなってしまった状況のなか、餓死寸前まで自分を追い詰める。やがて女の子に助けられて、その後奇妙な住み込みバイトを始めるんだ。身体の不自由な老人エフィングの世話係みたいなものを。そのエフィングの世話をするうちに、ひょんなことから素性のわからなかった父や祖父の過去が明らかになっていく......という。でもこれって推理小説とかサスペンス小説とかではなくて、あんまり言うとネタバレになっちゃうんだけど、エフィングがマーコ自身の実の祖父だったんだよね。だからこの話は、自分のルーツ(父が誰だかわからない)を探す旅でもあり、アイデンティティをめぐる話でもあるんじゃないかと。
S うん、私もこの話は、ルーツ探しの物語なんじゃないかと思った。なんだろう、マーコが実の父と出会うきっかけになったのはエフィングの世話をしていたからで、偶然なんだよね。でもマーコは父が誰だかわからなくて、母も子供の頃に亡くなって、唯一の肉親だった(だと思っていた)伯父も亡くなったという状況で、自分のルーツを探す欲望は、ずっと持っていたんだと思う。だからこの物語の中では、エフィングが実は自分の祖父で、実の父とも出会ってというのは、必然のように感じた。
M 偶然と必然かあ。この小説にも、偶然や必然についてのマーコの考察めいた話が出てくるよね。「人間の人生というのは、無数の偶発的要素によって決められるのです」「人は日々、これらの衝撃に耐え、何とか平衡を保たんとあくせくしています。......世界の混沌に身を委ねてしまうことによって、何か隠れた調和を世界が啓示してくれるんじゃないか、おのれを知るに役立つ何らかの形なりパターンなりが見えてくるんじゃないか、そう思ったのです」(オースター「ムーン・パレス」新潮文庫P.144)「偶然が正しい方向に導いてくれたことを僕は理解した」とか。
私、自分の記憶を辿ってみて、あれは偶然だったのかなあ、必然ってあるのかなあ、とか考えることがあって、人生は偶発的要素でできてるんだ、っていうこのマーコの考察に、こういう考え方もあるのか!って感心してしまった。
私、ポール・オースターすごく好きなんだけど、なんで好きなんだろうって考えてみたら、哲学めいたことの考察を小説の途中で始めちゃうところかなあ、と。そしてその文章がすんと腑に落ちる。例えば、この「偶然」についての考察も、オースターの他の作品にたくさん出てくる(『トゥルー・ストーリーズ』とか、『孤独の発明』とか)んだけど、オースターの作品における大きなテーマになってるのだと思う。
そういえばね、私ものすごい偶然的出来事を経験したことがある。ドイツのボンからフランクフルト空港に向かう列車に乗ってた時。席がいっぱいだったから、立って向かいの窓の外の風景をぼんやり見てたんだけど、その時ふと横切った顔が誰かに似てるなあと思ったら、なんと大学の友だちだったの!異国の地で、同じ日同じ時間の同じ列車、しかも同じ車両に居合わせる偶然に、ほんとにびっくりした。こんなことってあるんだなあって。
S うわあ、それはすごい偶然。びっくりするような確率の偶然に出会うと、その意味について考えちゃうよね。人生は偶然なのか必然なのか、誰にもわからないけれど、少なくとも偶然を必然にしちゃうというか、マーコの言う「何かしらのパターン」を見つけ出すっていうのは、人間がこの世界で生きていくための知恵のような気がする。
ルーツ探し
S マーコはこのように親がいない主人公だけど、親がいない主人公の物語とか、ルーツ探しの物語って多い気がする。そういう意味では、この小説も普遍的なものを扱っているんだなと。
数学のX軸とY軸による座標じゃないけれど、縦軸と横軸、時間と空間があって、初めて自分の居場所が確認できるのかなと。マーコはこのうちの縦軸―自分のルーツが欠けていて、だから心もとないというか、自然とルーツを辿る旅をしたんじゃないかな。伯父が亡くなったあと彼は積極的に生きようとしなくなり、餓死寸前まで行くんだけど、それも唯一の縦軸、縦糸がぷつんと切れちゃったからかなあ、とか、私は思った。
M そういえばエフィングの話の中に、こういうのがあった。「月や星との関係においてのみ、人は地上でのみずからの位置を知ることができる。......<ここ>は<そこ>との関連においてのみ存在し、その逆ではない。......自分でないものを仰いではじめて、我々は自分を見出すんだ。」(P.271)これも縦軸、縦糸と同じことかもしれないね。「自分でないもの」を据えないと、自分はわからない。自分を内に探していっても、わからない。そう考えると、前回話し合った「フラニーとズーイ」の、自分の殻に閉じこもっちゃうフラニーにもつながるかも。自分の中に潜っていって、消えてしまいそうになるフラニーは、前半の、誰にも会わずごはんも食べず、部屋に閉じこもるマーコと重ならない?
S 確かに!改めて、「自分」は何かとの関係性の中にしかないんだなと思う。でもそれに気付くのって、やっぱり一度とことん、まあフラニーとかマーコほどじゃなくても、自分の中に潜っていく経験を経る必要があるんだろうね。だから、時間という流れがある物語という形式で、何度もこの自分の中に潜る→関係性の中に帰ってくるという経験が語られるのかもしれない。
父殺し
S 主人公のマーコって、間接的にだけど、祖父のエフィングとその息子、つまり自分の父親を殺してしまうんだよね。私はこれ、オイディプス王を思い出した。自分の父とは知らずに、父親を殺してしまう古代ギリシャ悲劇。
これ、一般的な子どもの親離れを象徴的、というか物語的に書いているのかなと思った。父を知る→殺す→自分の足で歩く、というマーコの物語は、子どもが大人になるために必要なイニシエーションを表していて、だから「ムーン・パレス」は見方によっては、大人になるための物語なんじゃないか。
M たしかに。そうやって大人になるための物語ってみると、劇的なこの話の筋がちょっと和らいで考えられるかも。後書きで、この小説のメッセージとして「人はいったんすべてを失わなければ何も得ることはできない」って書いてあるように。でもその失うって言ってもマーコの場合、自ら進んで壊していっているように思えるけれど。
月のモチーフ
S タイトルもそうだけれど、この物語を貫いているモチーフって月なんだよね。月は何を意味しているのか、何のメタファーなのか、っていう問いが当然読んでると浮かんでくるけれど、必ずしも一つではない気がする。翻訳した柴田元幸氏のあとがきによると、
......タイトルにもある「月」のシンボリズムについて考えてもいいかもしれない。マーコの夢想癖、浮世離れした性格の象徴としての月。月面着陸に見られるような、未知の世界へのアメリカ的渇望の究極的対象としての月。老人(引用者注:エフィングのこと)がかつて知り合いだった、実在の異色画家ラルフ・ブレイクロックの描く月は、逆に、アメリカが失ってしまった世界を包んでいた調和の中心だ。あるいはまた、超肥満体歴史学者のつるっ禿げ(引用者注:マーコの父のこと)の頭もどこか月を思わせる......
と書かれるくらい、たくさんのメタファーとして月は解釈できるんだよね。
M タイトルの「ムーン・パレス」はマーコが大学時代に通っていた中華料理店の名前(実在し、実際に作者オースターも通っていた)だしね。そこで出されるフォーチュンクッキー(アメリカの中華レストランでは、食後にフォーチュンクッキーが出され、クッキーを割ると一言書かれたおみくじが出てくる)をマーコが読むと、そこには「太陽が過去であり、地球は現在であり、月は未来である」と書いてあった。これって、どういう意味なんだろう。
S うーん、なんだろうね。でもこの通り、月が未来であるとすれば、月はマーコが追いかけるものの象徴なのかなと思った。マーコは父も祖父エフィングも亡くなったあと、エフィングがかつてやったように(そして、アメリカの歴史がそうであったように)アメリカの西海岸を目指すんだけど、最後満月が上るシーンでこの物語は幕を閉じるんだよね。ここにたどり着くことでマーコは、何か大事な問題が解決するような感じがする、幸福感に包まれていると言っている。「僕はただ歩きつづければよいのだ。歩きつづけることによって、僕自身をあとに残してきたことを知り、もはや自分がかつての自分でないことを知るのだ」とあるように、マーコが過去を清算、というかルーツを知った上で、新たに未来へと歩んでいく象徴が、月なのかなと。月も、東から西へと移動するし、マーコも月(未来)へ向かって、東から西へと進んだんじゃないかな。
M なるほど。太陽に照らされた月を目指して歩く。過去、経験から自分を知って歩いて行く。そう考えるとこの小説ってすごく長くて後半ちょっと冗長に思えるけど、何度もくりかえし登場するメタファーである月が主人公を導いていて、それがこの物語を見通し良くしてるのかもしれない。
オースターの文章
S すごくぐいぐい読ませるよね、この小説。やっぱりオースターの文体によるものなのかな。
M 「村上春樹 雑文集」にて、オースターの文章について触れられているんだよね。彼の文章はすごく音楽的だって。実際、オースターも執筆しているときは音楽の存在を強く感じているらしい。「ムーン・パレス」って、哲学的で抽象的話、長々と続く冒険話、一人語り、強いドラマ性、みたいな雑多な要素が全部詰め込まれているんだけれど、それでもぐいぐい読ませるのは、さっき出てきた月のメタファー以外にも、その音楽性によるものなんじゃないか。村上春樹はバッハを引き合いに出していて、オースターの文章はバッハの「壮絶なミクロコスモス」、「息を呑むようなシンメトリーの宇宙」と重ねているんだよね。
S なるほどー!村上春樹も言及していたとは。やっぱりそのリズムが、この小説を貫いているし、だからこそ面白くさせているのかな。
そういえば、私エフィングが食べ物を食べるシーンがすごく印象的で。エフィングがどれだけ汚く食事するかっていうのが、事細かく描かれているんだよね。スープを音をたてて飲んだり、とにかくこぼしたり。読んでてうわ、汚いな見たくないなって思うんだけど、そう思わせるってことは、作家の文章が上手い証拠だってどっかで読んだことがある。食べ物を美味しく描くことはできても、まずそうに描くのは技量がいるって。
M 確かに!あと、文体だけじゃなくて、語り手についてはどうかな?この小説、地の文はマーコが語り手だけれど、途中エフィングとマーコの父バーバーによる語りになるんだよね。この語り手が変わるっていうの、夏目漱石の「心」みたいだなと思った。有名な「先生の遺書」が、先生の語りであるように。こうやって語り手を変えていくことで物語が重層的になったり、親子3代というクロニクル(年代記)ものになったりしていて、時間や時代というものをすごく意識させている気がする。
S 語り手といえば、マーコっていわゆる「信頼できない語り手」なんじゃないかな。特にエフィングと出会う前の、最初の方。恋人キティに初めて出会ったときとか、部屋を追い出されるあたりとか、兵役のための検査のシーンとか、本人が語っていることと周りが彼から受ける印象に乖離が結構見られる気がする。「信頼できない語り手」といえばカズオ・イシグロ(「私を離さないで」など)に顕著だけれど、語り手に沿って物語を読んでいると、それが現実と乖離していることにだんだん気づくんだよね。現実とそうでない世界、事実とそうでない想像の境目などが曖昧になっていく、そこもこの語り手ゆえの面白さだと思う。その分、はらはらして読むことになるしね。
......などなど、今回もざっくばらんに話しました。再びやって思ったのが、やっぱり誰かと話すと解釈の幅も広がるし、その場で新たな見方も生まれていくということ。
「ムーン・パレス」は単純に物語を追っていくだけでも面白いし、今回は触れなかったけれど、アメリカの歴史として(西部開拓、ベトナム戦争、月面着陸)、またはその関連として読むのも興味深いと思います。古典というわけではない小説であるものの、最初に言ったようにぐいぐい読ませるので、だまされたと思ってまずは手に取ってみてください。何といっても「それは人類がはじめて月を歩いた夏だった。そのころ僕はまだひどく若かったが、未来というものが自分にあるとは思えなかった」から始まるんですから。
その上で、この対談を横目に、自分にとってのこの小説の意味みたいなものを考えてもらえれば嬉しいです。
次回取り上げる作品は、カポーティの「遠い声 遠い部屋」か「ティファニーで朝食を」の予定です。なぜかアメリカ文学が続きます。
- 作者: トルーマンカポーティ,Truman Capote,村上春樹
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あなたの小説との出会いに、幸多からんことを。
★★★今回出てきた本たち★★★
- 作者: ポールオースター,Paul Auster,柴田元幸
- 出版社/メーカー: 新潮社
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- 作者: ポールオースター,Paul Auster,柴田元幸
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1996/03/28
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文学を、肴に。サリンジャー『フラニーとズーイ』をめぐる対談/考察
J.D.サリンジャーの小説『フラニーとズーイ』を二人で語り合いました。
語り合うといっても堅苦しいものなんかじゃなくて、ラフに、思いつくままに、特に根拠もなしに、読後感をカフェでおしゃべりする感覚で語らったものです。
というより正確に言うと対面ではなく、Line上で思ったことを送りあったものを、後で対談形式にまとめたものなんですけどね。
なので話のまとまりといったものは、あまりありません。
けど、
一人で読むのもいい。けど、二人で読むとなおいいよね。
答えなんて簡単には見つからないよね。
疑問を共有すると、その疑問への自分の知らなかった見方を知ったり、そこからまた新たな疑問が生まれたりして、面白いよね。
そんな当たり前のことに、この小さな”対談”から気づかされました。
というわけで、『フラニーとズーイ』を大好きな人も、昔読んだけど忘れちゃったって人も、これから読んでみようかなって人にも、読んでもらいたいです。
『フラニーとズーイ』を語りたい
M 沙妃ちゃんがブログで書いているみたいに、『フラニーとズーイ』は、簡単に言うと、迷える妹を兄が救うというとてもシンプルなストーリー。でもこの小説、妙に共感できる部分が多いよね。フラニーが「エゴ」で悩むとことか。私もよくフラニー化してる。(笑)
この小説のなにが面白いかって、やっぱり「細部」が濃いっていうのが大きい。
S そう、『フラニーとズーイ』はとってもシンプルな話で、あらすじだけを取り上げると、大学生のフラニーが、スノッブでエゴが強くて、周りの評価を気にしてばかりの周囲の人たちにうんざりして、自分の中に閉じこもっちゃう。
そんなフラニーをお兄ちゃんのズーイがまあまあと言ってなだめるというか、フラニーの殻を破る話。周りのエゴにうんざりして、でも自分自身もそんなエゴから自由ではなくて悶々と悩む…というのは別に1950年代のアメリカの若者だけじゃなくて、現代の日本に生きる人たち、まあつまり私たちにも通ずることで。
そんな普遍的なものを扱っているからこそ、逆に細部が活きてくると思うんだよね。ズーイがお風呂の中でたばこを吸いながら手紙を読むシーンとか、お母さんとズーイのウィットに富んだ軽妙な会話とか、ズーイの結婚に対するくすっと笑えるエクスキューズとか…って全部ズーイ関連になっちゃったけれど。
この小説が読まないとわからないのは、テーマうんぬんじゃなくて、そういった細部の面白さに支えられているからと思う。
これって、『ノルウェイの森』?
M まず、ズーイがバディとしてフラニーに電話する場面。これ、村上春樹の『ノルウェイの森』だ!と思ったの。これは小説的にはクライマックスの場面なんだけれどね。フラニーとズーイの上にいるバディーっていうお兄さんが、この小説の語り手でもあり、最後にズーイがこのバディーのふりをして、フラニーに電話をかけるんだ。ややこしい。(笑)
『ノルウェイの森』のレイコさんが、主人公の恋人直子が死んだ後、「僕」に会いに行く最後のシーンがあるじゃない。そのレイコさんが実は直子の代わりなんだ、ってどこかで読んだんだけど、似ている!って発見した。つまり、霊(シーモア・バディー※バディーは“霊”ではないけど/直子)の代わりに誰か(ズーイ/レイコさん)が、メッセージを届けに行くっていう構図が似ているなあ、と。
S 『ノルウェイの森』との対比、面白いね。私、シーモアの存在をどう受け止めるか、もやもやするんだよね。シーモアっていうのは、フラニーズーイバディーたちの長兄で、自殺した人。万葉ちゃんが言っている霊っていうのは、つまり死者っていう意味だよね。私、シーモアがこの小説の鍵になっているというか、背後を貫いている一本の流れのようなものかなと思っている。
さらに村上作品と似ているところをさぐる
M あとね、バディーとシーモアみたいな何かを「つなぐ」存在として、私は「羊男」を思い出した。村上春樹の作品で登場するあの「羊男」。
「羊男」も、物語世界のなかで主人公の「僕」をこちらとあちらの世界でつなぐ存在(『羊をめぐる冒険』では「鼠」と「僕」)じゃない。
でも実は、なんでいきなり「羊男」が私の中で出てきたかというとね、もっと単純に、バディーが「冬のための設備もなければ、電気も通じていない小さな家に一人で住んでいる」(p.80)っていう説明があったからで。『羊をめぐる冒険』に出てくる羊男も、北海道の山奥にある牧場の一軒家に一人で住んでるじゃない。だから、ぱっとイメージが重なったの。それからバディーと羊男がそれぞれ物語世界で果たす役割を考えてみたら、なんか似てるぞ!と。
S なるほどね~。この『フラニーとズーイ』も村上春樹が訳しているし、彼の作品との繋がりを見出すのは面白いね。私はさっき万葉ちゃんが言ってた、霊の代わりとしての存在が、『フラニーとズーイ』と村上作品にすごく共通していると思う。
バディーとズーイって、両者とも亡くなった、言わば霊的な存在のシーモアと、フラニーをつなぐ巫女的存在なのかなって。巫女的存在は村上春樹によく出てきていて、さっき出た『ノルウェイの森』のレイコさんもそうだし、『羊をめぐる冒険』だと耳が素敵な「僕」のガールフレンドがそうかな。こちらの世界とあちらの世界を繋ぐ人。
「太ったおばさん」の謎
M 「(フラニー、君は)太ったおばさんのために靴を磨くんだよ」って、シーモアの台詞をズーイが電話でフラニー語るところ、おお~なるほど!!と、鳥肌が立った。何のためにこんなことやってるんだろう…と考えこんじゃうんじゃなくて、とにかくやる、やり続けることって、結構人生において重要なんじゃないかな、って。
あと、あえて「太ったおばさん」っていうよくわからないモノをぽんと置くことで、自己とかエゴとか、自分とばかり対峙して硬直してしまわないで、「関係」のなかで自分を考えなさいよ、ってことかなあと思った。
そういえば、『村上さんのところ』(村上春樹が読者の質問メールに答える、という軽~く読めるんだけどとってもためになる本)で、村上春樹が似たような話をしていたんだよね。生きる意味についての質問に対して、生きる意味なんて考えると行き詰るから、「たとえばヤクルトの投手ローテーション」とかを考えてみましょう、そうすれば自分がいて生きる意味があってヤクルトの投手ローテーションがあって「三角測量」できる、と答えています。
良い考え方じゃない?私、辛くなったときはこの考え方を思い出すようにしているんだ。
S 自分を関係性の中に置くっていうの、すごく納得する。なんだろう、自分を純粋に突きつめて行っちゃうと、最後にあるのは「死」なんじゃないかなって思ってて。自分は関係性の中にしかないのに、自分の中に入って潜っちゃっていったら、消えていく感覚なんじゃないかなあ、と。
M うんうん、なるほど。
S でも人は誰でも多かれ少なかれそういう時期とか、自分の中に潜っていっちゃう経験があって、それ故に「関係性の中の自分」にも気付けたりするから、私はそれ自体は悪いことじゃないんじゃないかな、と思ってる。
大事なのは、そこからどうやって関係性の中に戻ってくるか、であって。
M 自分を究極的に突き詰めていくと「死」に到る、ってほんと確かにそうだ。私個人的に、どうやったら、本当に心を患ってしまった人のことって救えるのかなあ、ってことを考えてて。たしかに本当に参ってしまうときって、自分の中に潜っている感覚がすごくある。
S 万葉ちゃんそういうこと考えていたのか!どうなんだろう、そうやって潜っていった人たちを救うのかってところに、一般的な解はないんじゃないかなあ。でもその分、小説でもそうだけれど、いろんな個別的な物語があると思ってる。
『フラニーとズーイ』も、村上春樹の特に初期作品も、他の人との関係性から抜け出して自分の中に潜っていった主人公が、そこからどうやって戻ってくるか、っていうのを描いているから、古典的な作品に連なるんじゃないかな。
『フラニーとズーイ』のシーモアや、『ノルウェイの森』の直子、村上春樹の初期三部作の鼠(よく考えたらこの三人、全員自殺している…?)は戻って来られなかった方で、一方それら作品のフラニーや「僕」は、「彼らになりえた」存在だと思っている。
M う~ん、人同士の関係性の中に戻ってくることを描いた小説、面白いなあ。他にもそういうこと書いている作品探したい。
私へこたれるとき、誰かが言った言葉に救われることが多くて、ズーイの全身全霊の言葉にすごく心打たれた。「太ったおばさんのために靴を磨くんだよ」、その言葉でフラニーが戻ってこられる。やっぱり、言葉の持つ力ってすごいんだなあ、と。
S 言葉の力、絶対あるよね。勿論悪い方向にも行っちゃうけれど、私も好きな言葉とか、よく書き写したり集めたりする。人文学やっている人が言葉を信じなくてどうする、なんて思ったり。(笑)
M そうだよね。あとさ、「太ったおばさん」的なよくわからないモノ、第三者をポンと置くのって、村上春樹が言っている「うなぎなるもの※」に似ていると思った。村上春樹ばかり出てくるけど。(笑)
※『柴田元幸と9人の作家たち』のなかで、村上春樹は小説を書く際に、書き手と読み手、そこに「うなぎなるもの」を持ち出して「三者協議」をする、ということを言っています。
S 「太ったおばさん」とうなぎ、面白いね!私、「太ったおばさん」がいまいちまだぴんとこないんだ。
なんだろう、「あなたは私だし、私はあなたである(ありうる)」ってことかな、なんて思っていた。私はどっちかっていうと、深く掘った先の地下水脈とか、ユングの集合的無意識みたいなものが浮かぶ。
M おお、なるほど。「太ったおばさん」っていうのはキリストなんだよって言ってるよね、ズーイ。じゃあ、「キリストだけを思って、キリストのために祈らなきゃならないんだよ」っていうズーイの言葉もそこにつながるかな?
S 確かに!そう、太ったおばさんはキリストでもあるって言ってるよね。太ったおばさん=キリスト=自分。ううーん、これ私の中で「太ったおばさん問題」と化してる・・・ここをぐるぐるまわり中。
ラブストーリー??
M あと気になったのが、ズーイの章の冒頭部でプロット説明するところがあるんだけど、そこで筆者が「これは集合的な、ないしは複合的な、そして純粋にして入り組んだラブ・ストーリーである」(p.75)って言ってるところ。これってシーモアとフラニーのラブストーリーってことかな?
S ラブストーリー!面白いね。そうやっていうとまた見方が変わる気がする。「太ったおばさんのために靴を磨くんだよ」っていうのは、シーモアからフラニーの愛のメッセージなのかな。でも確かに、シーモアのその言葉でフラニーは最後救われたもんね。
そういえば以前私、『フラニーとズーイ』をアニメ映画『たまこラブストーリー』と絡めて書いたんだけれど、こっちの映画の方は一瞬でわかるように、ド直球に「ラブストーリー」っていうタイトル。
この映画も表向きは幼なじみとの恋愛がメインテーマなのだけど、裏では、亡くなったお母さんと主人公のたまこがメインとなってて。映画の終盤でたまこは、亡くなったお母さんが、お父さんに贈った歌をテープで聞く。
このテープはお父さん宛てなのだけれど、ここで聞いたのはたまこで、そしてこのテープによってたまこは背中を押されて、一歩踏み出すんだよね。
これも、亡くなったお母さんからたまこへの、愛のメッセージであり、二人のラブストーリーなんじゃないかな(書いてて恥ずかしくなってきた)。
メッセージの伝え方
M ズーイが伝える手段に電話をとったところも、すごくぐっときたんだ。メッセージって、点と点を結ぶだけじゃなくて、いろんなものを経由してはじめて伝わるものもあるなあと。
S 電話を通じてのメッセージ、面白いね。距離があるからこそ、伝わるものってある気がする。さっき言った『たまこラブストーリー』の、お母さんのメッセージも、カセットテープを経由している。そもそも物語っていうのも、現代の形だと紙の本や電子書籍として出版されているから、様々なものを経て伝わっているんだよね。
とするとインターネット経由のコミュニケーションっていうのも、可能性あるのかなと思った。
…なんて風に、答えの見つからないまま、あっちへこっちへ話が飛びました。楽しかった。
やっぱり小説って、一人で読むのもいいけど、人と話すといっそう深みが増すと実感しました。次回は対面してやります。
現時点での予定はポール・オースターの『ムーン・パレス』です、お楽しみに。
答えの見つかってない宙ぶらりんな数々の問いは、これからまた別のものとつながったりして、新たな問いを生むんだろうなあ。
なんて期待しつつ、今日もまた新しい本に手を伸ばす。
ここまで読んでくださったあなたも、どうかこれをきっかけに、新たな本に巡り合いますように。
★★★
今回紹介した作品一覧:
- 作者: ポール・オースター,村上春樹,カズオ・イシグロ,リチャード・パワーズ,レベッカ・ブラウン,スチュアート・ダイベック,シリ・ハストヴェット,アート・スピーゲルマン,T・R・ピアソン,柴田元幸
- 出版社/メーカー: アルク
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- メディア: 単行本
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- 作者: ポール・オースター,Paul Auster,柴田元幸
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ブログの主旨
人・文・学
いま、日本の大学のいわゆる人文系学部が危機にさらされています。
「無意味」という理由で、 国は助成金をカットしたり、就職に不利だからと高校生自体そもそも集まらなかったりして、学部の存続が危機的状況だと聞きます。
一人の文学部出身者として、すごく悲しい事実です。
一方で、まあしょうがないかなあ、というか。
文学部側にも問題はあるんじゃないか、「無意味」と叩かれて非難を浴びるのも仕方ないことなんじゃないか。
それは、大学側に「文学部は文学畑の人間がやるもんだ!」みたいな、ある種権威主義的なところがまだあるような気がするからです(そういう空気を大学の学部内にいて、実際たびたび感じました。空気の入れ替えをした方がいい、きっと)。
人文学は、もっと開かれてあるべきなんじゃないか。
そういう思いで、このブログを立ち上げました。
「人文学」という広いくくりで、いろんなテーマを、二人で綴っていきたいと思います。
「人文学」って、なかなか面白いよ。
そんな提案です。